長い霧の先に、夜明けの光第1話
第1話は約3,012文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
二宮梨花(にのみや りか)は、松井竜之介(まつい りゅうのすけ)にまる5年も片思いをしていた。
彼のために、故郷から遠く離れたこの街に残ることを決めたのだ。
竜之介の婚約者が婚約パーティー当日に逃げだすと、梨花は迷うことなく前に出て、その婚約の証である指輪を受け取った。
竜之介が自分を愛していないことなんて、梨花はとっくに分かっていた。
結婚式の当日、藤井渚(ふじい なぎさ)が、「胸が苦しいの」と一言つぶやいただけで、竜之介は梨花を置き去りにし、渚のもとへ駆けつけた。
周りの誰もが梨花を笑った。竜之介という大木にしがみつく惨めな蔦のようだ、いつまでも目が覚めない愚か者だ、と。
彼女自身でさえ、かつてはそう信じて疑わなかった。
けれど、どんなに深い想いも、無視され、冷たくあしらわれ、何度も後回しにされ続ければ、いつか静かにすり減って、消えてしまうものだ。
そして、竜之介がようやく梨花を振り返ったときには、かつて、ありったけの愛で彼のそばにいてくれたあの女の子は、もう遠くへ去ってしまっていて、二度と振り返ることはなかった。
* * *
「お母さん……私、結婚しない」
破れたウェディングドレスの隙間から夜風が吹き込む。二宮梨花(にのみや りか)は裸足で誰もいない通りを歩いていた。ドレスの裾はほこりを引きずっている。
電話の向こうは一瞬黙り込み、信じられないというように声が震えていた。「どうしてなの?竜之介さんのこと、5年も好きだったんでしょ。あの子じゃないとダメなんだって、私たちの言うことも聞かずに、一人で家を飛び出して遠い街まで行ったのに。
竜之介さんに何かひどいことでもされたの?」
梨花は言葉に詰まり、涙がこらえきれずにこぼれ落ちた。
自分が間違っていた。両親の言うことを聞かなかったのが、間違いだった。
青春を、初恋の人のために結婚式から自分を置き去りにするような男に費やしてしまったのが、間違いだった。
幸い、結婚式は中止になって、まだ入籍もしていなかった。
「お母さん」梨花は冷たい空気を深く吸い込んだ。「こっちの事を片付けたら、来週には帰るから」
真夜中になって、彼女は松井竜之介(まつい りゅうのすけ)との家に帰り、荷物をまとめ始めた。
竜之介が帰ってきたのは、翌日の朝だった。
彼は高級レストランのテイクアウトの朝食をダイニングテーブルに並べた。「胃が悪いのに、朝食を抜いたらダメだろう」
梨花は黙って竜之介を見つめた。
結婚式を控えて、彼女は不安で胃を痛めていたのだ。
最近、医師に薬を変えてもらったから、しばらく朝食は食べられないと、何度も竜之介に伝えていたのに。
彼はいつも「分かった」と頷くだけで、本気で聞いてはいなかった。
竜之介はいつもこうだった。一見すると優しくて、思いやりにあふれている。
でもその優しさは、まるでガラス越しみたいだった。見えているのに、そのぬくもりに触れることはできないのだ。
本当に心から気にかけてくれたことは一度もなかった。
今だってそうだ。リビングにスーツケースや荷物を詰めた段ボールが並んでいることに、彼はまったく気づいていない。
「昨日、結婚式の途中で俺が帰ったことで怒っているのは分かる」竜之介は落ち着いた様子で数歩近づいた。「でも、渚が急に病気になって、一人で海外から帰ってきたんだ。放っておくわけにはいかないだろう。
また日を改めて、もっと盛大な結婚式を挙げよう」
そう言うと、竜之介はウェディングプランナーに連絡しようとしたが、スマホの着信音に遮られた。
受話器の向こうから、かすかな泣き声が聞こえた。藤井渚(ふじい なぎさ)の弱々しくて甘えるような声だった。「竜之介、どこに行っちゃったの?
病院に一人でいるとすごく怖いの。傷もすごく痛くて……
会いに来てくれないかな?」
竜之介はとっさに背筋を伸ばした。「先生はなんて言ってる?他に具合が悪いところはないのか?」
電話の向こうは一瞬静かになったかと思うと、甘えたように笑った。「もう、何でもないのよ。ただ、あなたに会いたかっただけ。
あなたがいないと、心細くて」
竜之介は梨花を数秒見つめ、眉をひそめて少し迷った後、優しい声で言った。「すぐ行くよ」
電話を切ると、竜之介は無情に言い放った。「先に飯を食っててくれ。渚が俺を待ってる」
そう言って、竜之介は背を向けて出ていった。
梨花はその場に立ち尽くしたまま、まばたき一つしなかった。
かつては竜之介の言動に激しく揺れ動いた心も、度重なる失望で、とうとう何も感じなくなっていた。
結局のところ、竜之介がずっと愛していたのは渚だったのだ。
大学の入学式で、竜之介は新入生代表としてスピーチをした。原稿なしで、流暢に数か国語も操っていた。
その知的な雰囲気と落ち着いた声は、会場中の視線を独り占めにした。
人ごみの中に座っていた梨花は、壇上の輝く姿を見つめ、胸がときめいた。
しかし、竜之介が渚を狂おしいほど愛していることは、すぐに大学中の誰もが知ることになった。
彼は深夜のグラウンドで3000台のドローンを使い、渚に告白した。夜空が、まるで天の川のような光で埋め尽くされたのだ。
そして、渚のルームメイトだった梨花に、花やケーキを渚に届けてほしいと頼むことさえあった。
渚が誕生日は海外で過ごしたいと何気なく言っただけで、竜之介はプライベートジェットを手配し、自ら彼女に付き添って飛んだ。
学内の噂サイトは瞬く間に炎上し、梨花もちらほらと耳にする情報から、すべての真相を知った。
松井家と藤井家は、昔からの付き合いがある家柄だったのだ。
両家の親たちは、二人が生まれてまもなく、将来の結婚を決めていた。
周りから見れば、二人はお似合いのカップルだった。
だが、あの時の渚はその縁談に全く興味がなかった。彼女は梨花に何度もこっそり愚痴をこぼしていた。「まだ大学生になったばかりで、人生これからなのよ。結婚なんて、そんなもので縛られたくないわ」
冗談半分で梨花と竜之介をくっつけようとしたこともあったが、彼にきっぱりと断られてしまった。
卒業が近づくと、両家は婚約パーティーの準備を始めた。
しかし、渚は婚約パーティーの当日、何も言わずに海外へ飛び立ち、そのまま連絡が取れなくなった。
招待客とマスコミだけが、呆然と取り残された。
竜之介が渚のことで、本気で怒ったのは初めてのことだった。彼は梨花のところへ来ると、冷静な表情で言った。「渚は、俺たちが付き合えばいいって言ってたよな?
じゃあ、俺たち、付き合おう」
竜之介は少し間を置いて、残酷なほど理性的な言葉を付け加えた。
「君には好きという気持ちはない。でも、君を尊重するし、大人として責任も持つ。あいつみたいに、勝手にいなくなったりはしない」
梨花はしばらく呆然としていたが、それでも頷いた。
こうして彼女は、故郷から遠く離れたこの街に残り、この関係のために自分の居場所を作ったのだ。
結婚式の日取りが急に決まったため、両親は駆けつけることさえできなかった。
梨花は、竜之介のそばにいれば、いつか彼の心も動かせると信じていた。
だが、渚が帰ってきて、自分たちの結婚式を台無しにした。
竜之介は渚を怒ることもできず、むしろ全てを許していた。
そこで、梨花はやっと理解したのだ。
この人は、永遠に自分のことを見てくれない。
温まらない心は、もう手放すべきだ。
彼女はスマホを手に取り、竜之介にメッセージを送った。【もう結婚式を続ける必要はない】