霧に沈み、あなたを忘れる第1話
第1話は約2,670文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
「おばさん、もう決めたの。私、京極家を出て、おばさんと一緒に海外で暮らしたい」
電話の向こうから返ってきた叔母の声には、喜びがあふれていた。優しく語りかけるような口調で言った。
「わかったわ、絵蓮。すぐにビザの手配をするけど、たぶん一ヶ月くらいはかかると思うの。
その間に、友だちやクラスメートにはなるべく会っておきなさい。新洲島に引っ越したら、もう簡単には会えなくなるかもしれないから、きちんと話して、お別れを言っておくのよ。
特に、おじさんには、ちゃんと感謝しないとね。あの人は、あなたを小さい頃から育ててくれたでしょう。その恩は、絶対に忘れちゃだめ。しっかりお礼を言いなさい」
森清絵蓮(もりきよ えれん)は、低い声で返事をした。
電話を切ったあと、彼女は立ち上がり、ベランダからリビングへと戻った。そして、ふとテーブルの上に飾られた一枚の写真に視線を向けた。
* * *
「おばさん、もう決めたの。私は、京極家を出て、おばさんと一緒に海外で暮らしたい」
電話の向こうから返ってきた叔母の声には、喜びがあふれていた。優しく語りかけるような口調で言った。
「わかったわ、絵蓮。すぐにビザの手配をするけど、たぶん一ヶ月くらいはかかると思うの。
その間に、友だちやクラスメートにはなるべく会っておきなさい。新洲島に引っ越したら、もう簡単には会えなくなるかもしれないから、きちんと話して、お別れを言っておくのよ。
特に、おじさんには、ちゃんと感謝しないとね。あの人は、あなたを小さい頃から育ててくれたでしょう。その恩は、絶対に忘れちゃだめ。しっかりお礼を言いなさい」
森清絵蓮(もりきよ えれん)は、低い声で返事をした。
電話を切ったあと、彼女は立ち上がり、ベランダからリビングへと戻った。そして、ふとテーブルの上に飾られた一枚の写真に視線を向けた。
そこには、夕焼けに染まった空と、温かな光に包まれた二人の姿が写っていた。
十七歳の京極衡稀(きょうごく こうき)がブランコのそばに立ち、笑顔で七歳の絵蓮を背中から押している。
風に揺れる彼女のスカートが、庭のチューリップをかすめていた。
あの日のことを、絵蓮は今でもはっきりと覚えている。とても、とても幸せな一日だった。
けれど、時は流れた。もう彼と自分は、あの頃には戻れなかった。
そう思った瞬間、絵蓮の瞳にふと切なさが浮かび、彼女は写真から視線を外して、遠くを見つめた。もっと遠くの、過去を思い返すように……
森清家と京極家は、代々親しく付き合ってきた。衡稀は彼女より十歳年上で、彼女は小さい頃から彼のことを「おじさん」と呼んでいた。
絵蓮が七歳のとき、両親は飛行機事故で亡くなった。そのとき、衡稀が彼女を引き取り、京極家で育ててくれた。
両親を失った彼女を不憫に思ったのか、彼はいつもそばにいて、何から何まで世話を焼いてくれた。
毎晩おとぎ話を読んで眠らせ、雨の日も風の日も送り迎えを欠かさず、面白いものを見つけると必ず買ってきてくれた。
少年だった衡稀は、そうやって日々少しずつ、小さな子供を立派な少女へと育て上げていった。
その優しさに、絵蓮は幼いころから彼に深く懐いていた。
そして思春期を迎えるころには、自然な流れで、どうしようもなく彼に恋をしてしまっていた。
十七歳の誕生日、衡稀はいつも通り盛大なパーティーを開いてくれた。
その夜、彼は酒に酔っていた。絵蓮は彼を部屋まで送り届けた。
好きな人が目の前にいるから、その想いを抑えきれず、彼女はそっと顔を近づけ、キスをした。
すると、衡稀はすぐに目を開け、彼女をソファの反対側へと突き飛ばした。
驚きながらも、絵蓮はこれがチャンスだと思った。そして思いきって、胸に秘めていた気持ちを打ち明けた。
だが彼の目には、それは道を踏み外した、決して許されない感情だけだった。
彼は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「絵蓮!自分が何を言ってるかわかってるのか?俺はお前の叔父なんだぞ!」
「叔父って言ってるけど、私は森清で、あなたは京極。血はつながってないでしょう?」
彼女が引き下がらないのを見て、彼の顔には険しさが浮かんだ。
「俺はお前より十歳も年上だ。お前はまだ十七で、家族愛と恋愛の違いもわかってないし、好きの本当の意味も知らない!」
絵蓮は、いつだって衡稀の言うことに素直に従ってきた。けど、この想いだけは、どうしても譲れなかった。
「じゃあ、子どもだからダメなんでしょう?でも大丈夫。私は大人になる。ちゃんと証明してみせる。恋愛が何か、本当に好きってどういうことか、ちゃんとわかってるって!」
あの夜、ふたりの口論がどう終わったのか、彼女はもう覚えていない。
しかし、それから毎年、誕生日には一度、必ず衡稀に告白した。
彼はいつも断った。それでも、彼女は諦めることなく想い続けた。
そして今、一ヶ月後には彼女の二十一歳の誕生日が来る。
だが今年、彼女はもう告白しないと決めていた。
一ヶ月前……衡稀が、恋人を連れて帰ってきたからだ。
絵蓮の心に、冷たい風が吹き抜けた。
それでも彼女は、涙をこらえて問いかけた。
「私を諦めさせるために、その人を連れてきたの?」
彼は彼女を一瞥し、冷たく答えた。
「勘違いするな。俺ももういい歳なんだ。恋人がいるのもおかしくないんだろう」
その穏やかな言いぶりが、何より彼女の胸に突き刺さった。
その夜、彼女は泣き続けた。頭の中はぐちゃぐちゃで、これまでのことが何度もよみがえった。
夜が明けるころ、海外に住む叔母からメッセージが届いた。
【絵蓮、こっちに来て一緒に暮らさない?
実は森清家の事故のとき、本当はすぐ迎えに行きたかった。でもあの頃、私は産後うつで、仕事も安定してなくて、動けなかったの。
今はもう落ち着いてるし、あなたも大人になった。京極家にいるのも都合が悪いでしょう、私のところにおいで?】
彼女は、すぐには返事を出せなかった。
だって、まだ衡稀のそばにいたかった。もう少しだけ、頑張ってみたかった。
しかし、この半月の間に、彼はまるで見せつけるように、丹羽梓(にわ あずさ)という恋人を何度も彼女の前に連れてきた。
手をつなぎ、抱き合い、キスを交わし、恋人としての親密な姿を隠すこともなかった。
そして昨夜……彼は梓を家に泊めた。二人は部屋に入った。
絵蓮は階下で、ただひとり、静かに座っていた。午前三時、ようやく明かりが消えたころ、部屋の奥から微かにかすかな音が聞こえた。
彼女は手で口を覆い、声を殺して泣いた。涙は静かに、ソファを濡らしていった。
そのとき、ようやく決心がついた。
衡稀への思いを……もうやめよう、と。