霧のように消えた愛第1話
第1話は約1,832文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
私・温井祈香(ぬくい いのか)が妊娠中に転倒したあの日、夫・清川宏(きよかわ ひろし)は指導教官の発熱した娘の世話に駆け回った。
流産を防ぐための医療処置にはリスクがあるから、家族のサインが必要だったが、電話に出た宏の口調は冷たかった。
「君は先生が気に食わないのを、僕はずっと知っているが、そんな言い訳で僕をそこに呼びかけるなんて、ふざけるな!」
私はすっぱり心が冷え切り、目頭から涙が落ちた。
「もう流産を防ぐことはありません。中絶手術をお願いします!」
子供と共になくなったのは、彼に対する私の満ち溢れる愛だ。
* * *
私・温井祈香(ぬくい いのか)が妊娠中に転倒したあの日、夫・清川宏(きよかわ ひろし)は指導教官の発熱した娘の世話に駆け回った。
流産を防ぐための医療処置にはリスクがあるから、家族のサインが必要だったが、電話に出た宏の口調は冷たかった。
「君は先生が気に食わないのを、僕はずっと知っているが、そんな言い訳で僕をそこに呼びかけるなんて、ふざけるな!」
私はすっぱり心が冷え切り、目頭から涙が落ちた。
「もう流産を防ぐことはありません。中絶手術をお願いします!」
子供と共になくなったのは、彼に対する私の満ち溢れる愛だ。
……
私は体が弱くて、妊娠中絶の手術の後で大出血し、死線をさまよった。
三日間も入院していたのに、宏は電話を一通もかけてくれなかった。
まだ完全に回復していない体で家に帰ると、丁度出かけようとしている宏に会った。
彼は携帯を握りしめ、眉をひそめていた。
「どこに行ったの?電話に出なかったし」
私は電池の切れた携帯を見て、流産のことを彼に伝えるつもりはなかった。
「用事があった?
進藤先生の娘さんがここ数日入院して点滴をしていて、何も食べられていない。速く栄養食を作ってくれ、僕が後で届けるから」
「何よ?」
聞き間違いだと思ったが、宏はまた同じことを言った。
彼が心配しているのは、妊娠中の私が家にいないことではなく、慌てて私を探して他人のために料理を作らせることだった。
突然胸をつかれ、はっきりと痛みが走ったようだ。
目の前の痺れを切らしている男を見て、私は背を向けて台所に入った。
宏の指導教官の進藤瑞穂(しんどう みずほ)が未亡人になり、一人で娘の進藤奈々(しんどう なな)を育てて以来、宏の彼女への気遣いはいつの間にか普通の「先生と学生の関係」を超えていた。
彼自身が何事にも瑞穂を最優先にするだけでなく、私やお腹の中の子供も彼女ほど重要ではない。
悔しさを感じることなんて、もう何度もあったが、今回はじめて平気に受け入れた。
真夏日に、流産したばかりの私は台所で忙しく料理を作って、すぐに汗だくになった。
宏に弁当箱を渡し、疲れ切った声で言った。
「もうできた。ちょっと休ませて」
でも彼は突然私の手首を掴み、断れないような口調で言った。
「君も一緒に行くよ。進藤先生は僕の恩師だから、君が僕の妻として、今病気で入院している彼女の子供を、見舞いに行くのが当然だろう」
私の考えは、そもそも彼の念頭に置かないものだ。
助手席に座ると、そこにヘアピンが置いてあるのに気づいた。
宏は私に視線を向けてそれを見ると、さっと手に取ってポケットにしまい、慌てて説明した。
「これはたぶん、進藤先生と奈々ちゃんを病院に送った時に、先生が落としたんだろう。後で返す」
娘が病気なのに、瑞穂は子供を後の席に置き、助手席に座っていたことを、どう考えても不自然だ。
だが私はただ平静に頷き、喧嘩しようとしなかった。
宏の驚いた眼差しを見つめて、ゆっくりと口にした。
「早く病院に行こう。料理が冷めないように」
過去の私なら、きっと頭に血が上って彼と喧嘩し、納得がいくまでしつこく説明を求めていただろう。
でもそうすればするほど、瑞穂のほうは品があって礼儀正しく見えるだけで、逆に私は物分かりの悪い人に見えてしまう。
彼のせいで心に数え切れない傷を受けたが、それでも彼が全然哀れみをかけてくれなかった。
日が経つにつれ、二人の心は冷え切ってしまい、ますます遠ざかっていった。
こんな人のために自分の気力や時間をすり減らすなんて、本当に意味がないと、私はやっと分かった。
宏が病室に足を踏み込むと、奈々は走り寄って彼の胸に飛び込んできた。
「パパ、やっと帰ってきたね!」
その呼び声で、その場にいる人がみんな驚いた。
私は息を呑み、言葉に詰まっている宏に目を向けた。
彼は固まった表情で私と見つめ合ったが、奈々の言葉を訂正しそうもなかった。