風のような愛、空ろな心第1話
第1話は約1,867文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
怜司が、育ててきたあの小娘に流星群を見せるため、高熱の私を山道に置き去りにしたそのとき、私は離婚を決めた。
友人が怜司に「機嫌を取ってやれ」と耳打ちする。
「兄貴、妹は妹、妻は妻。重さを取り違えるなよ」
怜司は気定まって、どこか高みから笑う。「本当に離婚すると思うか。脅しかけてるだけだ。
何年も俺が落ち着ける場所を与えてやった。俺がいるから彼女には家がある。俺から離れる?できるわけない。
見てろ、離婚届が受理される前に、泣いて復縁を願いに来るさ」
だが三十日が過ぎても、私は一度も振り返らない。
彼が四方八方に私を捜していたころ、私は霧に包まれた山中の別荘で、静かにお茶を飲んでいた。
「旭兄、やっぱりここがいちばん落ち着くね」
* * *
私は、神谷怜司(かみや れいじ)に離婚届を差し出す時に、彼はタブレットで綾野かんな(あやの かんな)の卒業用ドレスを選んでいるところだ。
電話越しに、少女の甘えた声が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、夜の帳を下地に、星を散らしたようなドレスがほしいの。あの夜、二人で見た流星群みたいにロマンチックなのがいい」
「いいよ、ゆっくり探そう。合うのがなければ仕立てればいい。うちのお姫様が満足するのが一番だろ」
怜司は相手を甘やかすようにあやし、私が差し出したものを見もしない。最後のページにぱらりとめくって、署名だけ落とす。
二人のいちゃつきが終わって、彼がテーブルの水を取りに行くついでに、ようやく一瞥する。
一瞥しただけで、彼は鼻で笑う。
「凪(なぎさ)、最近は気が強いな。病院に付き添わなかったくらいで、離婚なんて言い出すのか」
なぜいけないの?
あの日、私は生理で体調が悪かったのに、彼は無理に私を連れて山頂のリゾート山荘へ向かった。
夜になって私は発熱した。
病院へ連れて行ってと頼む私を、彼は山の中腹に置き去りにした。
「ここから歩いて十分下った先に、24時間の診療所がある。自分で薬を買って飲め。急用がある、先に行く」
熱が39.8度まで上がった私が、真夜中にどうやって一人で下山するというのか。
彼が去った直後、私は熱で意識を失った。
後になって知った。彼の「急用」は、かんなと流星群を見に行くことだった。
「やるやらないの問題じゃない。もう切り出してる」
私は落ち着いて靴を履き替え、家を出る。彼の詰問なんて意に介さない。
「署名したなら――神谷社長、市役所へ回して手続きを進めて」
怜司がほっとして同意すると思っていたのに、彼は不意に怒り出す。
「凪、俺が行けないとでも思ってるのか。
その時になって後悔するな」
後悔なんてありえない。私はひらりと手を振ってドアを閉め、車でアトリエへ向かう。彼の言葉の含みなんて、考える気はない。
最近、新しくオーダーメイドのドレスを受けていて、片づけ終えるころにはもう夜だ。
スマホに怜司からメッセージが入る。
【心苑(しんえん)に来い。裁縫道具を持ってこい】
離婚はもうカウントダウンだ。私は彼のために自分の時間を犠牲にはしない。
――が、さらに通知が続く。
【来ないなら、離婚届を出す当日に俺が来るかどうか、保証できないぞ。
それとも、離婚はただの焦らし戦術か】
ふっと鼻で笑い、私は疲れた体に裁縫箱を提げて出る。
夜の渋滞はひどい。心苑に着いたころ、連中はもうだいぶ出来上がっている。
怜司はかんならと輪になって、はしゃいでいる。
私とそこそこ付き合いのある南条明斗(なんじょう あきと)が怜司を諫める。
「兄貴、妹は妹、妻は妻。重さを取り違えるなよ」
友人の一言が気に入らないのか、かんなは怜司の頬を両手で包み、そのまま唇を奪い、横柄で勝ち誇ったように言う。
「私はお兄ちゃんに育てられたの。彼の心で一番大事なのは、もちろん私」
「はいはい、君が一番大事だ」
怜司はかんなの馴れ馴れしい仕草にすっかり慣れている。彼女の頭をくしゃりと撫で、余裕の笑みを浮かべる。
「本当に離婚すると思うか。脅しかけてるだけだ。
何年も俺が落ち着ける場所を与えてやった。俺がいるから彼女には家がある。俺から離れる? できるわけない。
見てろ、離婚届が受理される前に、泣いて復縁を願いに来るさ」
私は裁縫箱を握ったまま、立ち尽くす。
山の中腹に一人置き去りにされたとき、私は泣かなかった。
離婚届に署名させたときも、私は泣かなかった。
けれど今、鼻の奥がひりつく。
若いころ、彼が「君の帰る場所になる」と約束したから、漂うばかりの私の心は動いた。恋に落ちた。
そして数年後、その約束は、いま私の胸を刺す刃に変わる。
やっぱり、一番近い人間こそが、あなたの急所を一番よく知っている。