さようなら、娘より愛人を選んだ元夫第2話
第2話は約2,399文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
楽しげで和やかな空気が流れるその光景は、まるで私と娘だけが他人の家に迷い込んでしまったかのようだった。
「早苗……」
理人は勢いよく立ち上がると、大股で玄関まで歩み寄り、私のバッグを受け取った。
「真穂の大家が急に家を売ってしまって、あの親子は住む場所を失ったんだ。すぐには住む場所が見つからないから、俺がここへ連れてきた。少しの間だけでも、ここに住まわせてやれないか……」
私は何も答えず、お手伝いさんが私と娘の荷物を一つずつ物置部屋へ運んでいく様子を、ただ黙って見つめていた。
真穂は申し訳なさそうな声を出したものの、その表情には隠しきれない優越感がにじんでいた。
「ごめんなさい、早苗さん。私、体が弱くて、日当たりも風通しもいい部屋じゃないとダメなんです。それで理人さんが、主寝室を私に空けてくださって」
娘の部屋も、すでに陽太に占領されていた。
碧が何より大切にしていたお人形は陽太に放り投げられ、手足は無残にも折れていた。
理人は気まずそうに口を開く。
「早苗、それが嫌なら、俺が新しく……」
「いいわ」
私は無表情のまま手を差し出した。
「レンタル代は今までどおり。でも、私の家に住む家賃と、あなたを彼女の添い寝に貸し出すための追加料金は別で請求するわ」
バンッ!
理人は私のバッグを床へ激しく叩きつけた。
怒りで顔を真っ黒にして、声を荒らげる。
「早苗、お前、頭がおかしくなったのか!子どもの前で何をふざけたこと言ってる!恥ってものを忘れたのか!」
私はただ、冷たく笑うしかなかった。
他の女とその子どもを家へ連れ込んだのは彼なのに、その事実を口にした私のほうが恥知らずだと言うのだから。
理人は真穂親子を連れ、そのまま玄関へ向かって歩き出した。
私の横を通り過ぎる瞬間、彼は銀行のカードを私の顔めがけて勢いよく投げつけた。
「5000万円!これで文句ないだろ!
せっかくの厚意を踏みにじりやがって。一生金とでも暮らしてろ!」
部屋が静まり返ると、娘はしゃくり上げながらティッシュで私の顔をそっと拭いてくれた。
その時になって初めて、カードで目尻を切り、血がにじんでいることに気づいた。
「ママ、私が病気だからだよね。ごめんね。ママ、毎日パパに怒られてばっかり……」
私はあふれそうになる涙を必死にこらえ、娘を強く抱きしめた。
「ママは怒ってなんかいないわ。碧ちゃんが手術を受けて元気になってくれたら、それだけでママは幸せだから……」
幼い頃から毎晩眠る前には、必ずパパが絵本を読んでくれていた娘は、涙を浮かべたまま私の腕の中で眠りについた。
苦しそうに眉を寄せた寝顔を見つめていると、胸が車にはねられたように痛んだ。
あんなにも幸せだった三人家族は、いったいいつからこんな姿になってしまったのだろう。
真穂の夫が亡くなった後、彼女が思い詰めないようにと、理人が毎晩のように慰めに通い始めた頃からだろうか。
あまりにも頻繁に通うものだから、自分の家へ帰ってきた時でさえ、パパラッチに不倫だと勘違いされるほどだった。
それとも、父親のいない陽太がいじめられないようにと、理人が彼の保護者会へ一度も欠かさず出席するようになってからだろうか。
子どもの日も、誕生日会も、一度たりとも欠席しなかった。
そのせいで、私の娘は愛人の子どもだと誤解され、学校で壮絶ないじめを受けることになった。
あるいは、娘が初めて心筋梗塞で倒れた日、何度理人に電話をかけてもつながらなかった時だろうか。
ようやく病院へ駆けつけた私に、医師たちは皆、陽太の擦り傷の処置に回っていると言った。
娘の心臓は三度も止まった。私が必死に頭を下げて頼み込んで、ようやく一人の医師を引き留め、かろうじて娘の命を救えたあの日だったのだろうか。
私は深く息を吸い込み、足早に物置部屋へ向かうと、荷物を一つずつまとめ始めた。
持っていくのは、最低限の着替えと日用品だけ。それ以外は何一つ持ち出さなかった。
理人が私と娘を手作り工房へ連れて行き、家族三人で作った陶器のマグカップが目に入った時――
胸に鋭い痛みが走った。
かつて、時間も気遣いも愛情も、そのすべてを私と娘に注いでくれていた理人は、もう二度と戻ってこない。
忘れ物がないことを確かめると、私は眠り続ける娘を抱き上げ、この変わり果てた家を、未練を一つも残さず後にした。
新しい住まいでの生活が落ち着き、一週間が過ぎても、理人からはメッセージ一つ届かなかった。
その一方で、真穂からは絶え間なく連絡が送られてきた。
見逃されるのを恐れているかのように、自分たちの旅行を報じる記事を片っ端から転送してくるのだ。
無表情のまま開いてみると、彼らが訪れていたのはどこも、私と娘がいつか行きたいと願っていた場所ばかりだった。
オーロラを追いかけ、雪山でスキーを楽しみ、桜の名所を歩き、神社で願いをかける――
しかも、その記事を掲載したのは、かつて私と理人の世紀の結婚式を大々的に報じた、あのメディアだった。
【ごめんなさい、早苗さん。私もパパラッチにお金を払って記事を消してもらうよう理人さんを説得したんです。でも彼、「早苗にはいくらでもお金があるから」って聞いてくれなくて】
【全部私が原因ですし、理人さんにもらったアクセサリーやバッグを売って、記事を消す費用に充てましょうか?】
真穂は理人から贈られたプレゼントを、これ見よがしに写真へ収めて送りつけ、私を挑発していた。
以前の私なら、それを見た瞬間に真穂のもとへ乗り込み、すべて叩き壊して切り裂いていただろう。
けれど今の私は、ただ一言、軽くこう返信した。
【それじゃあ、お願いするわ】
真穂のトーク画面には、しばらく「入力中」の表示が出たままだった。
だが結局、新しいメッセージが届くことはなかった。
これで少しは大人しくなるだろうと思っていた矢先、突然、私の口座に1億円が振り込まれた。
その振込名義を目にした瞬間、全身の血の気が一気に引いた。