五十六回捨てられた花嫁第1話
第1話は約2,551文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
私は、白川沙織(しらかわ さおり)。
篠原恭弥(しのはら きょうや)と婚約して、もう五年になる。
軍の総司令である彼は、そのあいだに結婚式を五十六回も延期した。
一回目は、彼の部下の水瀬凛沙(みなせ りさ)が任務中にけがをして、彼は式の途中で呼び戻された。
二回目は、凛沙の昇進の日だった。彼は私を式場の入口まで送り届けると、祝いの品を手にしたまま慌ただしく去っていった。
……
五十六回目は、式の最中に凛沙から電話がかかってきた。
失恋したと泣きつかれた彼は、またしても迷いなく私を置いて行こうとした。
行かないでとすがる私の手を、彼は冷たく振り払った。
「式ならまた延期すればいい。でも凛沙は失恋したって泣いて、今にも飛び降りるって騒いでるんだ。もし本当に何かあったら、お前が責任を取れるのか?
お前の結婚式なんかより、人の命のほうが重いに決まってるだろ!」
軍人の妻になるつもりなら、人一倍我慢することを覚えろ――彼はそう言った。
自分がいつだって他人を優先する男だということも、受け入れろというのだ。
けれど私は、まだ一度だってまともに式を挙げてもいない。
そんな私のどこが、軍人の妻だというのだろう。
私は一通の申請書を提出し、機密要員として再び任務に呼び戻された。
すると彼は、私が去ったあとになって婚約指輪を握りしめ、果たせなかった結婚式をやり直したいと泣きながら縋ってきた。
――けれど、もう遅かった。
* * *
今日は私――白川沙織(しらかわ さおり)の結婚式の日だ。
「ごめん。でも、凛沙の命のほうが大事なんだ。今日はどうしても行かなきゃならない!」
こんなやり取りは、もう何度も繰り返してきた。
それでも、篠原恭弥(しのはら きょうや)がうつむいたまま私に謝った、その瞬間だけは今でも胸が締めつけられる。
これが、私と恭弥にとって56回目の結婚式だった。
これまで式を挙げようとするたびに、決まって何かが起きた。
一回目は、彼の部下の水瀬凛沙(みなせ りさ)が任務中にけがをして、恭弥は式の途中で駆けつけていった。
二回目は、凛沙の昇進が決まった日だった。恭弥は嬉しさのあまり涙ぐみながら、式場の入口に私を残したまま飛び出していった。
三回目は、私が選んだ挙式日が偶然にも凛沙の母親の命日と重なってしまい、「配慮が足りない」と恭弥に責められ、そのまま式にも来てくれなかった。
……
そんなことを、私はもう55回も繰り返してきた。
それなのに今日の式だけは――なぜか、すべてが驚くほど順調に進んでいるように見えた。
けれど――
式の最中に、不意に恭弥のスマホが鳴った。
受話口の向こうから聞こえてきたのは、女の甘えるような泣き声だった。
穏やかだった恭弥の表情が、一瞬で強張る。
……ああ、まただ。
胸の奥が冷たく沈んでいくのを感じながら、私は思わず口を開いていた。
「恭弥、あと10分だけ待って。指輪を交換したら、すぐ行っていいから。
お願い……凛沙が命に関わるような状態じゃないって、あなたも分かってるでしょう?」
これまで私は、恭弥に何かを頼んだことなんて一度もなかった。
それでもこのときだけは――
情けないと思いながらも、私は彼の袖を必死に掴んでいた。
恭弥がゆっくり顔を上げる。
その目に浮かんでいたのは、隠そうともしない苛立ちだった。
「いい加減にしろ。軍人の妻になるなら、それくらいの覚悟は最初からしていたはずだろ。
俺は遊びで動いてるんじゃない。今この瞬間だって、人の命がかかってるんだ。
凛沙は今、屋上で俺を待ってる。一分でも遅れたらどうなるか分かってるのか?もし何かあったら――お前が責任取れるのか?」
そう言うと恭弥は、本来なら私に渡すはずだったブーケを無造作に放り出し、そのまま振り返りもせず式場を出ていった。
ざわめきが広がる。
参列者たちはこんな光景を何度も見てきたはずなのに、それでも小声で噂するのをやめなかった。
「またなの……?」
「さすがにしつこすぎない?あそこまで嫌がられてるのに」
「もう結婚する気なんてないの、見てれば分かるでしょ……」
「篠原さんも大変よね」
一つ一つの言葉が、胸の奥に突き刺さっていく。
遠ざかっていく恭弥の背中が、涙でぼやけていく。
ずっと押し込めてきた感情が、とうとう溢れた。
「恭弥……!」
声が震える。
それでも私は叫んだ。
「今日ここを出ていくなら――私たち、本当に終わりだから!」
泣きながら絞り出したその言葉に、恭弥はようやく足を止めた。
振り返った彼は眉をひそめ、その声には苛立ちしかなかった。
「今さら何だよ。もう何回目だと思ってるんだ?
来月、改めて式を挙げればいいだろ。次は途中で抜けないって約束する。けど今回は本当に緊急なんだ」
言い終えるとすぐに顔を背ける。
私がどれだけ泣いていても、もう振り返ろうともしなかった。
会場のあちこちから、くすくすと笑う声が漏れてくる。
両親の顔も、見る間に暗くなっていった。
いつもなら――
こんなときの私は決まって取り乱して泣きじゃくり、子どもみたいにその場に座り込んで、誰かが慰めてくれるのを待っていた。
恭弥が戻ってくれば、その手をつかんで「本当に私のことが好きなの?」と何度も問いかけて、みんなの前で、結婚したい相手は私だって言わせようとしていた。
そして、みっともないほどすがりついて、次の挙式日を決めてほしいと頼み込むのだ。
――でも今回は違った。
追いかける気力さえ、もう残っていなかった。
付き合い始めた頃、私は「待たされるのが嫌いなの」と話したことがある。
すると恭弥は、それからどんなデートでも、必ず30分前には待ち合わせ場所に来るようになった。
雨の中で30分も私を待っていたことさえあるのに、私を1分でも待たせたことは一度もなかった。
それなのに――
人生でいちばん大切なはずの結婚式になると、彼は何度も先延ばしにして、気がつけば私は五年も待たされていた。
結局のところ、もう愛されていない。ただ、それだけだった。
私は一人でゆっくりと式場の中央へ戻った。
さっきまで胸の奥にあったはずの高揚感は、もうどこにも残っていなかった。
代わりに残っていたのは、どうしようもない疲れだけだった。
無数の視線を受けながら、私は静かに口を開いた。
「これで式は終わりです」
そして――
「これが、私たちの最後の結婚式になります」