五十六回捨てられた花嫁第2話
第2話は約2,472文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
客を見送り終えて家に戻った頃には、もう夜もとっくに更けていた。
それでも、恭弥はまだ帰ってきていなかった。
私はひとり、ぼんやりとSNSを開く。
タイムラインには、案の定、私を嘲るような投稿がいくつも並んでいた。
【ほんと懲りないよね。またこれが最後って言ってたのに、どうせ来月には次があるんでしょ】
【さっきのあの顔見た?もう終わりにするって言ってたけど、絶対そんなことできないでしょ】
【あそこまで振り回されてもまだ離れないとか……ある意味すごいよね。あのメンタルだけは本当に尊敬する】
私は無表情のまま、投稿をひとつずつ流していく。
こんな悪意、この五年で嫌というほど見てきた。
今さら何を言われても、もう心はほとんど動かなかった。
けれど――
その中に凛沙の投稿を見つけた瞬間だけ、指先がぴたりと止まる。
【五年経っても、あなたはいつも私のところに来てくれる】
添えられていた写真の中で、凛沙は男の腕の中にすっぽり収まりながら、悪戯っぽくウインクして笑っていた。
あまりにも幸せそうで、見ているだけで胸の奥がじくりと痛んだ。
前に一度だけ、私は恭弥に二人の関係を聞いたことがある。
すると彼は、露骨に顔をしかめた。
「お前、自分が何言ってるか分かってるのか?
俺たちは戦友だ。命を預け合ってきた仲なんだよ。
そんな関係を、変なふうに考えるな」
そんな言葉なら、もう何度も聞かされてきた。
だから私は、それ以上何も聞く気になれなかった。
私は顔を洗って涙の跡を拭い、大きなスーツケースを引き寄せた。
部屋の隅に置いてあった羊革のブーツを手に取る。
これは、私が持っている中でいちばん高かった靴だ。恭弥が最初の給料で買ってくれたものだった。
あれからも何度か靴を買ってくれたけれど、だんだん作りは安っぽくなっていって、ひどいものは一か月もしないうちに壊れてしまった。
だから私がずっと大事にしてきたのは、この一足だけだった。
テーブルの上に置かれたマグカップは、恭弥が初めて結婚式を延期したとき、自分で焼いて持ってきてくれた謝罪の品だった。
あの頃の彼は、たしかに私だけを見てくれていた。
そこにあったのは、ただまっすぐな想いと、隠しきれないほどの申し訳なさだった。
「沙織。俺だって本当はお前のそばにいたい。でも俺は軍人なんだ。頼む、もう一度だけチャンスをくれ。俺にどっちか選べなんて言わないでくれ」
部隊では誰も逆らえないような男が、目を赤くして声を詰まらせる。
そんな姿を見るたびに、私は結局、許してしまっていた。
――だからこそ。
あの頃の私が何度も引き下がってきたせいで、あの二人をここまで好きにさせてしまったのかもしれない。
また置いていかれたあの日も、このカップだけはどうしても割れなかった。
これを壊してしまったら、本当にもう二度と、あの頃には戻れなくなる気がして怖かったから。
荷造りが終わる前に、恭弥が酒の匂いをまとったまま部屋に入ってきた。
私はもう、酔い覚ましの飲み物を出そうとも思わなかったし、どうして凛沙のことでそこまで酔い潰れているのか、聞く気にもなれなかった。
どうせ返ってくるのは沈黙か、そうでなければ筋の通らない嘘だけだと分かっていたから。
私は深く息を吐いてから、重たい声で言った。
「恭弥、もう終わりにしよう。もうすがったりしない」
酔っているのだから、どうせ聞いてもいないだろうと思っていた。けれど恭弥は、はっきりと私に答えた。
「俺から離れて、お前を受け入れる男なんかいるわけないだろ。
お前は昔、俺と結婚するために全部投げ出して、ずっと家のことをやってきたんだろ。今さら行くあてなんてあるのか?
俺がいなきゃ、お前は二か月も持たない。沙織、俺だってもう疲れてるんだ。頼むから、これ以上俺を困らせないでくれ」
そして、小さく息を吐くように続けた。
「お前は……どうして凛沙みたいに、もう少し周りを見られないんだ。あいつのほうが、昔のお前に似てるよ。明るくて、夢もあって……」
胸の奥が、じわじわと痛んでいく。
夢……か。
あの頃、私と恭弥は同期で部隊に入った。あの時の成績は、むしろ私のほうが上だった。
けれど恭弥は、結婚したいと言った。温かい家庭がほしい、と。
私が優秀でいればいるほど、自分は隣に立てなくなる気がするとも言っていたし、表彰台に立つ私を見るたび苦しくなるのだとも打ち明けてくれた。
だから、そばにいてほしい。家庭を守っていてほしい――そう頼まれた。
あんなふうに苦しそうな顔をされたら、断れなかった。
でも、私が恭弥のためにすべてを手放してからは、今度は何度も凛沙の名前を口にするようになった。
凛沙は私よりずっと優秀だと。
私とは比べものにならないくらい上なんだと。
お前みたいな女は最初から俺には釣り合わない――
そんな言葉を、何度も繰り返された。
私は何度、夜中にひとりで泣いただろう。
思い出すのはいつも、恭弥が床に膝をついて、仕事を辞めてほしいと頼み込んだあの日の姿だった。
けれど今の私には、もう未来なんて残っていない。あの頃、私を愛していたはずの人も、もうどこにもいなかった。
恭弥は、まだ詰め終わっていないスーツケースを見て、小さく笑った。
「沙織、そんな大げさな話にするなよ。どうせお前だって、俺から離れられないの分かってるだろ」
喉の奥がひりつくように乾いて、視界が滲んでいく。
もう愛されていない。
分かっているのに、それでも胸の痛みだけは消えてくれなかった。
私がその場で震えるほど泣いていても、恭弥はまるで見えていないかのように凛沙へ電話をかけ、優しい声で彼女を気遣っていた。
スーツケースの中に詰めた荷物を見つめながら、もう持っていく意味なんてないのかもしれない、とふと思った。
私はソファに座り込んだまま朝を迎え、ようやく電話をかけた。
「白川沙織です。
機密任務に志願します」
受話器の向こうの相手は、何度も確認してきた。
それでも私は電話を切らなかった。
寝室でまだ凛沙と通話を続けている恭弥を見ながら、もう一度はっきりと言った。
「戸籍も名前も消して構いません。このまま任務に入らせてください」