五十六回捨てられた花嫁第3話
第3話は約1,953文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
まとめ終えた大きなスーツケースは、そのまま置いていった。
スマホだけを手に、私は五年間暮らした家を後にした。
あれから私はホテルに身を寄せ、友人たちや両親を食事に招いた。
これがきっと、みんなと顔を合わせる最後になる。そんな思いを胸の奥に押し込めながら。
その間も、恭弥から連絡が来ることは一度もなかった。
まるで、私が今どこで何をしていようと、そんなことどうでもいいみたいに。
発つ前の夜、私は両親と親しい友人を数人招き、食卓を囲んでいた。
それでもみんな、まだ私を思いとどまらせようとしていた。
「今さら篠原くんと別れても、あなたにいいことなんて何もないでしょう。
五年もやってこれたんだから、この先だって何とかなるわよ」
私は何も答えなかった。
母の白髪が前より増えているのに気づいて、ほんの一瞬だけ心が揺らいだ。
もしこのタイミングで恭弥が歩み寄ってくれていたら。
もし、たった一言でも引き止めてくれていたら。
きっと私は、また簡単に折れてしまったと思う。
この息苦しい空気から逃げたくて、私はトイレに行くふりをして席を立ち、恭弥に最後の電話をかけようとした。
けれど電話をかけようとした、そのとき――
目の前で、恭弥が凛沙を連れて隣のテーブルに座るのが見えた。
その場にいた仲間たちは一斉にどよめき、面白がるような声を上げた。
「恭弥さん、今日は婚約者いないんですか?
前はどこ行くにも一緒だったのに。女の人が近くにいるだけで、すぐ騒いでたじゃないですか」
恭弥は凛沙を気遣うように椅子へ座らせながら、私の話になると途端に面倒くさそうに笑った。
「あいつはどうせ、俺が迎えに行くの待ってるだけだよ。部隊に戻るとか言い出してさ、また変に意地張りやがって。
俺とあいつの婚約が周りに知られてなきゃ、とっくに終わってるよ。式を取りやめたら面倒だからそのままにしてるだけで、正直もう顔見るのもうんざりなんだよ」
すると別の男が、にやにやしながらさらに囃し立てた。
「じゃあ本当に終わったら、次は誰と結婚するんですか?
そのときはちゃんと俺たちにも声かけてくださいよ。もしかして、次の相手って凛沙さんだったりして?」
恭弥も凛沙も、頬を赤くしたまま何も否定しなかった。
――否定しないなら、それが答えと同じだった。
私はそのやり取りを黙って見つめたまま、胸の奥が痛みで震えていくのを感じていた。
次の瞬間、手にしていたグラスが指先から滑り落ち、床の上で甲高い音を立てて砕け散る。
その音に、その場にいた全員の視線が一斉にこちらへ向いた。
赤く滲んだ私の目と、露骨な嫌悪を浮かべた恭弥の目が、またぶつかった。
「いい加減、俺につきまとうのやめてくれないか。少しは放っておいてくれよ。今のお前見てるだけで、ほんと息が詰まるんだよ。
これ以上騒ぐなら、本気で容赦しないからな」
凛沙は私の姿を見るなり、びくりと肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔をした。
「沙織さん、怒らないでください……全部、私が悪いんです。今日、恭弥さんを呼び出したのも私なんです。本当に、ごめんなさい。
沙織さんが私のこと嫌っているのも分かっています。でも、どうか許してください……」
そう言うと、凛沙は怯えたように視線を落とし、何度も頭を下げた。
恭弥はとっさに凛沙を背中へ庇い、今にも私に詰め寄ってきそうな様子だった。
けれど私は、床に散ったガラス片を拾ってゴミ箱へ捨てると、淡々と言った。
「あなたが何をしようと、もう私には関係ない。
私たち、もう終わってるから。いちいち私に説明しなくていい」
そう口にした瞬間、自分で自分の胸を抉ったように苦しくなった。
この五年間ずっと押し殺してきた想いが、一気に込み上げてきた。
恭弥は一瞬だけ言葉を失った。
けれど次の瞬間には露骨に苛立った顔で、私の目の前まで詰め寄ってきた。
「こんなところで、わざと俺に恥かかせる気か?
俺はお前と結婚してやるって言ってるんだぞ。まだ何が不満なんだよ!
さっさと帰れ。これ以上ここでみっともない真似するな。もうすぐ大蔵さんが来るんだ。ここで騒いでみろ、本気で許さないからな」
恭弥は歯を食いしばりながら、低い声で私を脅した。
そのとき、大蔵周平(おおくら しゅうへい)がこちらへ歩いてくるのに気づいた。
恭弥は慌てて私を脇へどかすと、急いで椅子を引き、その人をうやうやしく席へ案内した。
「大蔵さん、まさか本当にいらっしゃるとは……」
恭弥は愛想笑いを浮かべながら必死に取り、ついには隣にいた凛沙の腕を引いて、この場を借りて彼女を紹介しようとした。
けれど、周平は恭弥の横をそのまま通り過ぎ、まっすぐ私の前で足を止めた。
「沙織。航空券はもう手配してある。今すぐ出発できる」
その瞬間、恭弥の体がぴたりと固まった。
彼の視線は、私の手に渡された航空券に釘づけになっていた。