夫と別れた途端、夫と息子が土下座で戻ってきてくれと言い出した第1話
第1話は約1,598文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
会社の忘年会で、夫と女性秘書が肩を寄せ合いながら、楽しそうにピアノを連弾していた。
二人が手をつないで壇上から降りてくると、息子まで嬉しそうに駆け寄っていく。
「蛍さん、すごいね!なんでもできるんだ。蛍さんが僕のママだったらよかったのに」
目の前の、仲睦まじい三人を眺めながら――
私は静かに、心の底で決めた。
もう、いい。
捨てるべきものは、ちゃんと捨てないと。
* * *
会社の忘年会で、夫と女性秘書が肩を寄せ合いながら、楽しそうにピアノを連弾していた。
二人が手をつないで壇上から降りてくると、息子まで嬉しそうに駆け寄っていく。
「蛍さん、すごいね!なんでもできるんだ。蛍さんが僕のママだったらよかったのに」
目の前の、仲睦まじい三人を眺めながら――
私は静かに、心の底で決めた。
もう、いい。
捨てるべきものは、ちゃんと捨てないと。
時野一真(ときの かずま)が息子の言葉に頷きかけた瞬間、私は大股で前へ歩き出し、彼のスーツに付いたマイクを思い切り引きちぎった。
キィィン――と耳を刺すような音が会場中に響き、さっきまでの賑やかさが一気に凍りつく。
すぐに、ひそひそとした声が飛び交い始めた。
「社長の面子を潰すなんて……奥さん、身の程知らずじゃない?」
「いや、でも社長もどうなの。愛人まで連れてきて、息子まで一緒って……」
ざわつく会場に反比例するように、一真の顔色はみるみる険しくなる。
彼は素早く忘年会のお開きを宣言し、来賓たちを帰らせた。
ただし、夏目蛍(なつめ ほたる)だけは残したまま。
真紅のイブニングドレスを纏う蛍は、一真の隣に堂々と立っている。
その姿は、一真がずっと昔に亡くした初恋の人・辛島悦子(からしま えつこ)に瓜二つだった。
息子の時野颯太(ときの そうた)はといえば、蛍の前にすっと立ちふさがり、私が彼女に何かするのでは、とでも言いたげにこちらを睨んでいる。
本当に、微笑ましい。まるで、彼ら三人が本物の家族みたいだ。
一真は片手で蛍の肩を軽く叩きながら、苛立ちを隠そうともせず私を睨めつけた。
「みんなの前で何してんだよ。そんなに蛍が気に入らないのか。
西の別荘に住まわせる。お前とは会わせない。
安心しろよ。おばあ様には約束したんだ。時野家の妻の座は、お前のものだって」
私が黙っていると、颯太まで怒鳴ってきた。「あっち行ってよ!ママなんか蛍さんに全然かなわない!蛍さんのほうがずっといいもん!蛍さんが僕のママだったらよかった!」
夫と息子が、まるで敵を見るような目で私を見ている。
私は何か言おうとしても、喉が詰まって声が出ない。
その様子を、蛍は余裕の笑みを浮かべて眺めていた。「奥様、私と一真さん、本気で愛し合ってるの。正妻の座を奪ったりはしないから、どうか安心して」
その瞬間、ふっと、どうしようもなく疲れが押し寄せた。
――もう、この人たちと関わりたくない。
私は手首のブレスレットを外し、一真へ差し出した。「これ……返すわ」
一真は一瞬きょとんとしたが、すぐに不機嫌そうに受け取り、振り返って蛍の手首にはめてやった。「君にやるよ」
そして、私を嘲るような目で見下ろす。
「さすがだな、千尋。時野家に小さい頃から育てられただけあって、物分かりがいいじゃないか。
時野家の宝を何の躊躇もなく返したとはな」
私の無表情を見て、一真は鼻で笑った。「そこまで従順なくせに、なんで今日みたいな真似した?
まだ礼儀が分かってないみたいだな。後でマナーの先生でも呼んで、叩き込んでもらうか」
私の返事なんて待たず、一真は蛍の手を引いて歩き出す。
そして、ふと立ち止まった。
左手の結婚指輪を静かに外すと、ためらいもなく床へ放り投げる。「これも、もういらない」
指輪はカラン、と乾いた音を立てて床に落ち、コロコロと転がって会場の隅へ消えた。
あの指輪は、私が選んだものだった。一真はとても気に入って、ずっと外さなかったのに。
今は、こんな簡単に捨ててしまえるんだ。