夫と別れた途端、夫と息子が土下座で戻ってきてくれと言い出した第3話
第3話は約1,229文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
長い旅を経て、私はようやく懐かしい草原に辿り着いた。
牧民の家を借りて、しばらくここで暮らすことにした。
故郷を離れていた時間が長すぎたせいか、この地域の方言はすっかり忘れてしまっていて、聞き取るのも一苦労だった。
幸い、隣に住んでいるのも他の地域から来た人で、ある日道に迷った時、彼が助けてくれた。
翌日、私はお礼にお菓子を作って持っていった。
「千尋さん、これめちゃくちゃ美味しいね。本格的だよ」
江崎蓮(えざき れん)が口いっぱいに頬張りながら、忙しそうに動くリスみたいで、私は思わず笑ってしまった。
話しているうちに、蓮がドキュメンタリー撮影のために来ているカメラマンだと分かった。
その瞬間、胸が少し弾んだ。写真は、私も大好きだから。
蓮は学生のように見えて、全身から青春感が溢れている。
本当なら、私だってまだ二十五歳なのに、この数年間は一真と颯太中心の生活ばかりで、自分がずっと年を重ねたように感じていた。
気持ちを整えるために、時間があれば草原を馬で走ったり、花を摘んで庭に飾ったりする。
質素だけど、ここは私だけの小さな世界で、とても満たされた気持ちになれた。
午後、蓮と山の上でタイムラプスを撮る約束をした。山道は歩いて登らなければならない。
機材を分担して持とうとした私に、蓮は慌てて背中に隠すようにしながら笑った。「千尋さんに重いものを持たせるわけないでしょ。女性に荷物なんて持たせられないよ」
その一言に、私は過去のことを思い出した。
一真と一緒にいた頃、彼はいつも大股で先を歩いて、私は後ろからついていくだけだった。鞄を持って、水を渡して、黙って従うだけ。
颯太も大きくなるにつれて、一真と同じようになった。
時々、一真は私を馬鹿にした。「そんなものもまともに持てないのか?悦子ならこんなことにならない。千尋、お前は本当に使えないな」
颯太まで真似して言った。「ママって、ほんと役に立たないよね」
思い出した途端、視界がじんわり滲んだ。
その変化に気づいたのか、機材をセットし終えた蓮がふと振り向いた。
「千尋さん、この星空、見てごらん。嬉しい時も苦しい時も関係なく、いつだってこうして光って、俺たちを慰めてくれるんだ。
いつかさ、きっとこの星空の下で、生まれ変われるよ」
私は顔を上げ、広い空に流れる天の川を見つめた。蓮の言った「生まれ変われる」という言葉が、胸の奥で何度も響く。
時野家を出て、一真と颯太から離れたこと。それは十五年間で、一番正しい選択だった。
そんなことを考えていた時、不意にスマホが鳴った。
出ると、颯太の詰問するような声が耳に飛び込んでくる。「いつ帰ってくるの?いないと宿題教えてくれる人がいないんだけど。
ママのご飯が食べたくなった。無責任だよ、早く帰ってきて僕の面倒見てよ!」
その当然だと言わんばかりの口調は、火花みたいに私の中の怒りに火をつけた。
私は声を冷たくして、短く言い切った。
「颯太。あなたはもう、蛍さんをママに選んだでしょう。
私はもう戻らないわ」