選ばれなかった指輪第3話
第3話は約1,668文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
雪歌が何度も彼の名前を呼び、声にはもう明らかな苛立ちがにじんでいた。
ようやく羽空は、しぶしぶといった様子で私から視線を離した。
……
あのレストランでの出来事が、出国前の最後の関わりになると思っていた。
けれど。
まさか、羽空の秘書を正式に辞めたその夜に、彼からビデオ通話がかかってくるとは。
信じられない気持ちで、思わず拒否しそうになった指をぐっと抑え、代わりに音声通話に切り替えた。
受話器から、彼の不機嫌そうな声が響く。
「なんで音声だけなんだ?」
私は適当に答えた。
「化粧してないから。ビデオはちょっと……」
言ってすぐ後悔した。
まるで「好きな男の前ではきれいでいたい」って言っているみたいじゃないか。
案の定、羽空はふっと笑った。機嫌が良くなったような、軽い調子で言う。
「もう長年連れ添った夫婦だろ。お前のどんな姿を見たことがないっていうんだ?」
その冗談めいた口ぶりに、胸の奥がざらりと嫌な感触になった。
私は冷たい声で返した。
「用事はあるの?」
私のよそよそしい態度を敏感に感じ取ったのか、彼は姿勢を正し、真面目な声に変わった。
「人事から聞いたぞ。お前、辞めたんだって?」
「うん」
短く答えるだけ。それ以上の説明は必要ない。
一瞬、沈黙が流れた。
羽空は軽い調子で続けたが、どう聞いても無理に話題を探しているようにしか聞こえなかった。
「まあ、いいんじゃないか。せっかくの会長夫人なのに、わざわざ秘書になるとか。
苦労を買って出るようなものだ。それにしても、お前の勤務ぶりもすごかったな。会社でお前を見かけることなんて、月に一度あるかないか。
でもちゃんと給料は払ってたんだ。会社中にお前がコネ入社だってバレちゃってさ、俺が縁故で人を採用してるって言われてるよ」
私はうんざりして、彼の話を遮った。
「白石のところに行かなくていいの?」
羽空は思わず口ごもった。
「別に、彼女と俺は何の関係もないんだ、ずっとそのそばに付き添う必要がないだろう」
そう言うと、彼は黙り込んだ。
その理由に、自分でも気づいたのだろう。
――私も、もう「元妻」に過ぎないのだ。
羽空の声が、少しだけ弱々しくなった。
「……離婚のことは、悪かったと思ってる。でも、あの時離れなきゃ、雪歌が噂されるのが嫌でさ」
私は小さくうなずいた。
雪歌が噂されるのは可哀想――だから私が笑い者になるのは当然だとでも?
胸の奥で何かが冷たく固まった。
「もういい?切るよ」
「待て!」
焦ったように、羽空の声が響いた。
「十二日は、俺たちの結婚記念日だろ?お前の大好きな歌手のコンサート、前から行きたがってたじゃないか。一緒に行こう、な?」
その瞬間、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、すぐこの国を離れる真実を話そうかと思った。
けれど、その時だった。
電話の向こうから、雪歌の声が響いてくる。
「羽空、バスタオル忘れちゃった。持ってきてくれる?」
羽空は答えず、しばらく画面の向こうで固まっている。私の名前が映ったスマホの画面を見つめながら、動けなかった。
私は無表情で言った。
「早く行きなよ」
彼はゆっくりと立ち上がった。
それでも、なかなかスマホを置こうとしない。
「千昭、ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
そう言い残し、浴室へと向かう。
そして、聞こえてきたのは二人の唇が触れ合う音。
羽空の低い吐息、続いてドアの閉まる鈍い音。
私は静かに笑い、通話を切った。
ちょうどその時、万純が楽しそうにバーに遊びに行こうと私を誘ってくれた。
私は迷わずスマホを置き、立ち上がって彼女の腕を取った。
――この世界には、私を笑わせてくれるものがまだたくさんある。
過去の私が一枚の葉に囚われていたのなら、今の私はもう、森全体を見ている。
過去のものとなった男一人のために、これ以上思い悩む必要があろうか。
……
羽空のいない日々は、驚くほど早く過ぎていった。
気づけば、出国まであとわずか。
もう関わることもないと思っていたが、万純の話から彼と雪歌の近況を耳にした。
――二人は大喧嘩をしたらしい。
羽空は雪歌の前で怒鳴り、挙げ句の果てに、パーティーの最中にドアを叩きつけて出て行ったという。